海南神社について

由緒由来

由緒由来を記した縁起書によると、藤原貴族の系統である藤原資盈公(ふじわらのすけみつこう)、盈渡姫(みつわたりひめ)の夫婦が三崎の地に流れ着いたことが、当神社の起こりです。資盈公は二年という短い期間に、海賊の平定、教養の普及などに努め、この地の文化の礎を築いたとされます。

御祀神について

海南神社では主祭神の藤原資盈公(ふじわらのすけみつこう)と盈渡姫(みつわたりひめ)ら、数ヶ所に十数柱が祀られています。

本殿、幣殿、拝殿

御祭神:藤原資盈公 盈渡姫

相殿に地主大神(じぬしおおかみ)、速須佐之男大神(はやすさのおのおおかみ)、菅原道真公(すがわらみちざねこう)、天之鳥船命(あめのとりふねのみこと)、筌龍弁財天(せんりゅうべんざいてん)を祀っています。本殿は寛保3年(1743)年、幣殿と拝殿は寛政10年(1798)年の建立。本殿は建長寺の大工、河内三左衛門の手によるとされています。装飾の見事さや歴史的価値が評価され、2011年に建造物として市内では初めて神奈川県の重要文化財に指定されました。

金毘羅宮

御祭神 大物主大神(おおものぬしおおかみ)

海上安全、大漁満足、商売繁盛の御神徳があるとされ、まぐろで有名な三崎の漁業関係者らから篤く信仰されてきました。

伊勢大神宮

御祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)

八百万の神の中で最高位に位置する太陽神を祀っています。国家安穏、国民幸福の御神徳があるとされます。

海南高家神社

御祭神 磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)

全国でも珍しい料理の神様。東征で知られる古代の英雄、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父親に当たる景行天皇(けいこうてんのう)は、病没した息子を偲んで、三浦半島から安房上総を巡行。その料理賄方を担ったのが磐鹿六雁命だとされます。料理の祖神として信仰され、料理人や調理師免許受験生も多く参拝に訪れます。境内には包丁塚・包丁奉納殿もあり、手を触れずに魚をさばく包丁式、長年の努めを終えた包丁に感謝を捧げる包丁供養祭も毎年行われています。

福徳稲荷神社

御祭神 豊受気比売大神(とようけびめのおおかみ)

天照大神の食事を司る、衣食住、産業の守り神です。家内安全、商売繁盛の御神徳があるとされています。

龍神社

御祭神 龍神大神(りゅうじんおおかみ)

お社にかかる雄株の御神木が龍神様のお姿に見えます。災難除け、金運、開運の御神徳があるとされています。

金毘羅宮

御祭神 大物主大神(おおものぬしおおかみ)

海上安全、大漁満足、商売繁盛の御神徳があるとされ、まぐろで有名な三崎の漁業関係者らから篤く信仰されてきました。

疱瘡神社

御祭神 源為朝(みなもとのためとも)

平安末期の武将、源為朝は弓の名手として知られましたが、皇位継承をめぐる内乱「保元の乱」で敗れて大島に流されました。疱瘡が流行した際に大島だけ感染者が出ず、豪勇の為朝がいたので疱瘡を寄せつけないのだろうという俗信が広まりました。為朝はこのほか、痲疹の神様としても篤く信仰されています。

境内の案内

神馬舎

木造の神馬が祀られています。あるとき神社の神馬が逃げ出し、町内で亡くなりました。するとたちまち疫病が蔓延。社に白馬を奉納したところ鎮まり、以降、この馬に祈ると脚気が治ったと言い伝えられています。御神徳は健脚、足の病気平癒です。

御神木

雌雄2株の大イチョウは樹齢約800年。源頼朝公(みなもとのよりともこう)がお手植えされたと伝わります。女性の乳房のように垂れ下がった雌株の枝を触ると、乳が出るようになるとされています。

子産石

秋にたくさんの銀杏の実をつける大イチョウは、子孫繁栄の信仰を集めてきました。雌株の根本部分に祀られた子産石を子宝の願いを込めて優しく触ると成就すると伝えられています。

力石

かつて力試しに用いられたとされた大石。藤原資盈公(ふじわらのすけみつこう)が相撲嫌いだったため、相撲取りには持ち上げることができないと伝わります。これは資盈公が天覧試合で力比べには勝ったが、相撲では負けたという故事に由来します。三崎で相撲が催された時は必ず雨が降るとされ、昭和初期に名横綱・双葉山の参拝が計画された際、氏子の反対で中止されたこともあります。

大絵馬

磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)を描いた大絵馬は縦4メートル、横5メートル。旧一万円札の聖徳太子肖像画などで知られる馬堀法眼喜孝画伯の作です。

神楽殿

毎年11月初めの未(ひつじ)の日の翌日と翌々日、申(さる)と酉(とり)の日に、三浦市の重要無形民俗文化財に指定された仮面劇「面神楽」が神楽殿で奉納されます。市井の人々が演じる神楽は全国にありますが、面神楽では面をかぶるのが特徴です。大漁を祈願する「恵比寿の舞」「浦島太郎」など、漁業を中心に発展してきた三崎らしい演目も演じられてきました。

神橋

欄干に設置された擬宝珠(ぎぼし)は、向井政綱(むかいまさつな)の子、忠勝(ただかつ)が寛永10(1640)年に奉納したものです。忠勝は戦国末期から江戸初期の武将。三崎御船奉行を務め、本邸は「三崎宝蔵山」にあったとされます。

芭蕉句碑

松尾芭蕉の「松杉をほめてや風のかをる音」という俳句が記されています。かつて三崎の地では俳諧が盛んであったことを忍ばせます。

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